生老病死

生老病死
生老病死

実家から、遠く離れて暮らしているからには、
覚悟していたことがあります。

それは親の死に目には遭えないであろうこと。

ですが、私の思い描いていた覚悟なぞ、机上の空論。
今回つくづくそれを思い知りました。

今日はここ数日で考えさせられた3つのことを書きます。

ひとつは
親孝行について。

そして、
家族の絆について。

そして、
健康について。

話が長くなりますので、要約だけ先にのべておきますと
一度死にかけた父の手術のために帰省してましたが、
無事成功し様態も安定して帰京できましたので
ご心配はなされませぬよう。

3月末。父が急性心不全で病院に担ぎ込まれました。

なんとか一命をとりとめましたが、
3つの心臓弁がほとんど機能していないため様態は楽観視できず、
手術待ちで2か月かかりようやく弁置換手術を受けることになりました。

3つの弁のうち、手術で修復できる弁は2つ。もうひとつは弁を交換する必要がありました。
心臓の弁の置換は機械弁とウシや豚の弁を代用する生体弁があり、
父はもう若くないので機械弁ではなく、生体弁置換を行うことにしました。

術前には朝の8時に手術室に入り17時頃には麻酔からも覚めている予定ですと説明を受けておりました。
手術自体は成功率が85~90%と高いのですが、
父は肺の状態が悪く手術に肺が耐えられるかの方が危ぶまれておりました。

肺の働きがどんなに重要かを知ったのはこのときです。

生き物の体は血液が体内を巡ってます。
体内をめぐっていろいろな組織に酸素を提供した血液は心臓の4つに分かれた部分に戻ってきて
肺に送り込まれ、再び肺で十分に酸素をもらって真っ赤になった血液が、心臓に戻って
全身に新鮮な酸素を含んだ血液を送り出すそうで。

酸素がなければ哺乳類である人間は生きていられない。

父は長年のヘビースモーカーでしたので、肺の働きが通常よりかなり悪かったのです。
弱った肺は血液の酸素濃度を高くできず、
さらに血液を送り出す心臓の弁もポンコツになってしまってた状態でした。

手術の前日、病室で見舞った父はひとまわりも小さくなり、
心肺機能が弱っているために肺に水が溜まり都度注射で抜かれるそうですが、
終始ひゅーひゅー呼吸音を立てて辛そうでした。

見舞いを終えて家に帰り、
父が運ばれた日のことを母が話してくれました。

夜中にうめき声をあげだした父に、母は最初なんかうなされてるわと起きなかったそうです。
そして父に救急車を呼べと言われた母はやっと飛び起き、電話をしようとするものの、
救急車の電話番号がわからなくなってしまったそう。

117、171にかけてみたり・・・(°m°;)

とっさに104だと思って救急車の番号を!と交換台の方に叫んだそうです。

家の電話機には、マジックで大きく
119と書かれていました。

パニックになるとわけがわからなくなるからと
あとで母が書いたそうです。

手術の日は朝の6時半に家を出て、
手術前の父と30分ほど話し、8時から母と私と出張中の弟の代わりに弟嫁の3人で待機。

事前に説明を受けていた17時をまわり。
・・・まぁ遅れることもあるよねと話ながら。

18時を回っても手術室からの連絡はなく。
・・・このころにはなんだか無言でドアが開くのをひたすら待ち・・・

18時半を過ぎたころにはとうとうナースセンターに詰め寄りましたwww

何かあったらすぐに連絡が来ますので、
連絡が来ないということは大丈夫ということですよとなだめられwww

母も私も弟嫁も医療関係従事者だというのに、
いざ患者の立場になると話は全く別www

そんな冷静でいられるかい!

19時には家族控室のドア窓にはりついてナースセンターをじーっとガン見www
・・・看護士さんたちはこっちと目を合わせないようにしてましたww

そして19時半。
実に手術室に入ってから11時間強にわたる手術が終わってICUでの面会が許されました。

たくさんの管を通され、まだ麻酔から覚めず血の気のない父親は
はっきりいってご遺体のようで母親は気がゆるんだのもあり号泣。
ワタシもつい、死体みたい・・・と執刀医の先生の前で暴言(°m°;)

手術は、ワーファリンという血液を流れやすくさらさらにする薬を服用していたため、
予想外に出血して長引いたそうです。

ですが、飲まず食わずの11時間。
手術チームの先生方には本当に感謝してもし足りません。

帰京の朝、ICUに寄るとまだ目を開けることはできませんでしたが、
こちらの声に反応しうなづく父の姿がありました。

「お医者さんのいうことばちゃんと聞いて、次正月に帰るけん、
そんときまでに元気になっとって」

父の固く閉じられた目から涙があふれてきました。

帰りの飛行機では、日本列島を厚く覆った梅雨の雲の上に、抜けるような青空が広がっていました。
2014-06-1015
ああ、カメラ持って行っとけばよかったよw

遠く離れて暮らしているので、
親の死に目には遭えないだろうと覚悟はしてました。
でも、それがこんなに早く来るとは想像だにしなかった。
(いや、まだ生きてますけどwww)

いつかは来るけどそれはしばらくはないと思っていたんですね~。
それを覚悟とは自分よ・・・カタハライタイわー。

真っ先に思ったのは私も弟もまだ親孝行してないのに!でした。
娘は東京で放蕩生活、息子は心配のかけどおし。
若いころから子供を育てるのに働きづくめで
自分の趣味にお金や時間をかけることもなかった両親。

特に父は娘である私に甘々、いや大甘っていうかw

年に一度しか帰らず、連絡無精の放蕩娘は東京で好き勝手して生きていて幸せなのか幸せじゃないのか
父は私の行く末を案じて、このままじゃ死んでも死にきれんとゆっていたと母に聞きました。

父が倒れた話をきき、まっさきに親孝行まだしてないと思いましたが
親孝行ってなんだろうと改めて考えました。

旅行に連れて行ったり、美味しいものを食べさせたりという物理的な所業が親孝行?
それも確かに親孝行の一環。

でも、究極は子の幸せが親の一番の願いなわけなんですよね。
子供が健康で、少々の困難があっても毎日充実して暮らしていること以上の親孝行はないなって思いました。

離れて暮らしてる以上、父に実際会えるのはあと10回もないかもしれません。
でも、この世に送り出してくれて、ここまで育ててくれた感謝の気持ちを、
困難がないわけじゃないけど毎日それと対峙して充実して生きていられていることを
ちゃんと言葉にして伝えていこうと思いました。

そして、親より先に死ぬのは何よりの親不孝。
私は高血圧という不穏分子を体に抱えているわけですが、
ついつい若いと無理がきいてしまいますから医者の忠告をないがしろにして生活している部分もあります。

医者は自分が忠告したにもかかわらずいうこことを聞かずに、体がぼろぼろになってから、
なんとかしてくれーと泣きついてくる患者も救わねばならないわけです。

私が医者だったら、それみたことかと言い放つでしょうw

しみじみ我が身を振り返って反省です。

それともうひとつ、今回肺の大事さを痛感しました。

だからこそ、声をあげたいと思います。

タバコ、ダメ。ゼッタイ!

吸ってる本人はいいのでしょうが、
残された家族は心配でたまりませんよ。
やめる方がストレスたまるとかそういう問題じゃありません!

若いうちは大した症状もでないから・・・

いいですか?老人になってどうしようもなくなる前にやめなされ、○乃さん。

健康のありがたみは、健康でなくなってからしか気づかないといいますけど・・・。
本当にそのとおりですね。

実家に帰ってから左胸がちくちく痛む感じがしてました。
これは心臓に異変?今私が倒れたら母は発狂するな・・・とか思いましたが。

心臓神経症とは動悸や息切れ、呼吸困難、めまい、胸痛などの
心臓病に多く見られる症状があるにも関わらず、
心臓を検査しても特別な異常が認められないものを総称した病気です。
心臓自体には異常がなく身体的な問題では無く、
精神的な要因も考えられることから「こころの病気」とも呼ばれています。

また過去に心筋梗塞を発症した経験を持つ人や、
身内に心臓病で亡くした方が居る人が、
極度の不安を感じた時などに起こりやすいということも報告されています。

心臓神経症の原因は未だ分かっていませんが、ストレスや不安を強く感じた時や
体に疲労が溜まっている時などに起こりやすいということは分かっています。

症状は胸の左側の心臓に近い部分に
ズキズキやチクチクと表現されるような痛みを感じることが多く、
他にも動悸や不整脈、呼吸困難や頭痛に嘔吐などの狭心症と同じような症状があります。

まさにこれ。
私は相当ストレス耐性が高い方だと自負しておりましたがwww
静かに影響を受けていたようですwww

今回、実家に3泊しましたが、
母親は移動するたびに家じゅうの電気をつけまくって、
あちこちの電気をつけっぱなしにしていました。
まぁこちらは九電ですが、電気の無駄遣いは原発再稼働の理由直結になるので、
なんで電気つけっぱなしにするかねーと私が電気を消して回ってたら

母がぽつりと

だって、ひとりやもん・・・と。

考えてみれば、結婚する前は実家で大家族、
結婚してからは父の母を含めた3世帯家族と
母はひとりで暮したことがなかったのです。

術後は号泣、家ではしょんぼり。

このまま帰京して大丈夫か心配ではありましたが、
出張中の弟がなるべく嫁を実家に行かせるので、
あとのことはこっちに任せて心配せずに帰れとメールくれました。

今回、弟が出張中だったのもあり、弟嫁には世話になりました。

いざ実際親に何かあったら
遠方の私はせいぜい金銭面で工面するくらいしかなく、
負担は全部弟夫婦にかかってくるわけです。

とはいえ弟は働かねばならないので、実質弟嫁の肩にすべてかかってくるわけです。

これまでも嫁姑仲がいいわけじゃ~ありませんでしたが、
(帰省のたびに、母から嫁の悪口を、嫁からは母への愚痴をきかされてきたものですwww)
自分もパートで働いてる中、時間を捻出して心配して母の様子をみてくれているのは本当にありがたいことだなぁと思います。

雲の狭間にて。
2014-06-10 14

親もいつまでも若いわけじゃない。
いつかは、九州に戻らねばならない日がくるかもしれない。
それでも・・・

バイクを通じてきっと新しい友達ができ、週刊阿蘇山なんかやっている気がするwww

九州に帰る日が来たら。
北海道や東北、富士山には物理的に簡単には行けなくなるので
今のうちに行っとこう。

今年北海道に行こうと決めたのはこれがあったからですwww

九州に帰る日が来たら。
阿蘇山走りまわって、角島とか瀬戸内とか四国カルストとか行けるじゃーんw

ミ・エストがいればどこにいても変わらない。

いつなんどき、どうなっても、悔いのないよう
今を満喫して生きていきたいと思います。

この件に関してはコメントはクローズで失礼します。長々とすいません。

コメントは受け付けていません。