母の日

母の日

HP開設したのが、1999年の4月21日だから、
いろんなこと書き続けてもう13年にもなりますwww

今回ブログの移転作業してて、過去のブログ整理しててみつけました。
今日は母の日ですね。

ここ最近ヘビーな話題ばかりですからね~。
バイク話題をご希望の方はスルーしてくださいまし。


2007年の母の日のblogより。

これを一番最初にみたのは、10年前だったと思う。

この「母の貯金」の作者さんと同じように
母親に謝りたいけど、
ずーーーーーーーっと、ごめんのひとことを伝えられないでいる。

高校生だか、大学生だったか、
原因は忘れたけど、ケンカして
「私はお母さんのようには生きたくない!」
って暴言を吐いたことがある。
言い過ぎたと思いながら謝ることができずに10数年過ごした。
母親のすごさを実感したのは一人暮らしをする中でのこと。
働きながら、家事、新聞配達、子育てと
いったいどうやって時間を捻出していたのか。

うちもこの「母の貯金」の作者さんと同じような境遇だった。
父も母も身を粉にして働いて姉弟2人育ててくれた。
違うのは、大学まで出してくれたこと。

大学は推薦入学で他のクラスメイトより先に合格した。
担任に報告したら合格証はないのか?
合格証を持ってくれば認めてやるっていわれた。
確か、ホームルームの時間だったかと思う。
まわりにみんながいたことを覚えている。
私は、こう答えた。
「合格証は親が入学資金を借りるために持って行きました」
担任の反応は覚えていないが、言葉を濁していたような気がする。

入学資金のようなものは、普通の家庭では貯金してあるものだと
知ったのは大学卒業して最初の会社を退職するときだった。
それからしばらくホームルームのようなみんながいる場所で
入学資金を借金してるので、、、と、いったことが恥ずかしく悔やんでいた。

そんな浅はかな私だったけど、
「私たちは、この子には何の財産も残してやれないけど、
大学で勉強させてあげたことだけは私たちが残してあげられた財産です」と
恩人に挨拶する母の言葉をきいたとき、そんな考えは吹き飛んだ。

今の私の年収よりはるかに低い父親の年収で遠い田舎から
奨学金を二つも借りて東京に送り出してくれた両親。
そんな両親をもてたことを誇りに思う。
近くにいすぎるとわからなかったと思う。
遠く離れてるからこそ、親のありがたみを感じる。

(2007年頃前職の会社がつぶれたので)無職となることがきまったときに、
まず思ったのは、親には決していえないってことだった。
強いようでいてもろい母。
父は定年後アルバイトで働いていて、母も今年定年する。
弟の起こした事業の借金の抵当になっていた両親の住む家は
2005年に弟の事業が失敗し、破産したと同時に
私がその借金の全額を肩代わりして払う契約にすげかえることによって
かろうじてとりあげられなかった。
私が無職になって、返済を返せなくなるということは
借金ばかりで手持ちのお金もなく、老いて仕事もなくなった両親2人の
住む家がなくなってしまうということだ。
そんな不安に陥れることは決していえなかった。

それから2週間、自分の進路を決めてから、
母親に会社がつぶれることをメールした。

母からの返事には
「あんたは親に心配をかけないようにと、
何もかも自分のうちに秘めて背負い込んでしまうから心配だ。
借金はなんとでもなるからどうにも辛かったらこっちに帰っておいで。」とあった。

母は私が思っているよりずっと強いのかもしれない。

今は
「私もお母さんのように生きていきたい」
と、心から思う。

でも、そのひとことをなかなか言い出すチャンスがない。
もうすぐ母の日。
「母の貯金」の作者さんに背中を押してもらって
ずっといえなかった一言を伝えよう。

そしてここから8月8日の日記。

「ごめんなさい」と言おう、と母の日には思いたったのだが、
実際口にするのは照れくさく結局あのまま母には謝っていなかった(笑)

友人が誕生日には母親に私を産んでくれてありがとうと
いうようにしているよという話をしてくれた。

産んでくれて、ありがとう。

大学生のころ、初めてパスポートを作るのに、戸籍謄本を取り寄せた。
父と母が結婚し、戸籍が作られたのは、私が生まれる2ヶ月前だった。
自分の出生自体が危ういものだったのかとそのときに愕然とした記憶がある。

それを機に母が話してくれたのは、私には姉がいたという。
その私の姉になるはずの子は生まれることができなかった。
家庭の事情ってやつだな。

そして、その姉と同じ運命をたどっていたかもしれない私が母の中で育っていたとき
母のハラが据わっていなければ、私はこの世には生まれていなかった。

誕生日、面と向かって電話で話するのも照れくさいから、
私を産んでくれてありがとう。
昔、「私はお母さんのようには生きたくない!」っていってごめんなさい。
今はお父さんとお母さんのように生きていきたいと思ってるって両親にメールした。

母親からはこんな母ですがこれからもよろしく、と返事が来た。
父親からは辛くなったらすぐ帰ってきていいけど、
お前ががんばりたいならもうちょっとがんばれと返事がきた。
あとで父が涙ぐんでいたと更に母からメールが来た。

親には心配させまいとすればするほど、
何もいえずに抱え込んでいるんじゃないかって
心配ばかりかけてしまう放蕩娘なのだけど、
産んでよかったと思える娘にちょっとは成長したい、と思った誕生日でした。

母親は、私の暴言は覚えてなかったけど(笑)、母の日になると思い出して襟を正す。

ひとつだけ追記。
肩代わりして、返済を続けてきた借金は、
いよいよあと3回で完済する。
ワタシが借金を肩代わりすると決めたとき
事業で貸し付けられた金額をただのサラリーマンが背負って払っていくなんて
普通に考えても無理だよ、実家はあきらめて破産しなさい
とか、
お金を払ってあげることが弟さんのためになることなのか?
とか
親族・知人・弁護士に散々言われた。

実際、30代でそんな借金背負うなんてお先真っ暗だとも思った。

でも、弟を恨んだことって一度もない。
たったひとりの弟だし、ちっちゃな頃から悪ガキで、ギザギザハートを地でいってた
弟の波乱万丈の人生を間近でみてた私としてはよくぞアウトローな人生から
まっとうに軌道を修正したって尊敬するし、そんな弟を誇りに思う。

借金を背負うと決めたときに
あきらめたこともある。
まずは自分のすべてだったフラメンコを踊ることを諦めた。
毎日踊ってたし、毎日自分とフラメンコだけだったから身を切られる思いだった。
自分とフラメンコを突き詰めれば突き詰めるほどお金がかかるからね。
それから誰かと家庭をもって、子供を産むことも諦めた。

でも・・・
馬に出会った。
ミ・エストと出会った。
新しい人たちとも出会ったし、
フラメンコ時代の友達は今でも何でわかるの~?お見通しwの仲が続いてて
100%謳歌して生きてる。

人生にはいろいろ岐路があると思う。
なし崩し的に選ばざるを得ない道を、しぶしぶ歩かないといけないこともあると思う。
前職の頃はもっと給料も低かったから朝6時から別のところでバイトして、
それから会社に行って夜中まで働いたりもした。
迷いもしたし、愚痴しか口を出ないこともあった。

でも、人生を諦めるってことは頭になかった。
フラメンコを続けてれば?とか子供がいたら?とか思わないこともない。
でも、どんな道でも自分が選んだ道だし、
そこでなんとかするって希望さえ見失わなければ、
どんな道でもその道を100%生き抜いてこれる。

福島の方もぼちぼちご覧になられているこのblog。
ワタシなんかとは全くレベルは違うけど、
先が見えない不安の渦中にいる方たちに
それでも希望さえあればなんとかできるって少しでも伝えられたらいい。

7年も借金返し続けるなんてって途方にくれたりもしたけど、
不可能ってのは自分の心が作りだす壁にすぎないってこと証明できたよって
7年前の自分にゆってあげたい気分です。

2件のフィードバック »

  1. こんばんは

    今回ログを拝見し、母の日としてある今日という日に感謝しました。
    私もまだ親元にいたころは、その有り難みも分からず暴言を吐き、反抗し、半ば強引な形で上京してきました。
    自分が大人になり相当数な月日が流れましたが、不思議と昔吐いた親への暴言は覚えているもので、ずっと引っかかりに‥
    「ごめんなさい」「ありがとう」を素直に言える日に、素直な気持ちで言葉に出来ました。

    ありがとうございます。

    • >H.D.Kさん
      なかなか親に言葉に出して感謝の気持ちを伝えるってこういう機会でもないと難しいですよね~。
      でも、伝えられるうちに伝えられるって、本当に幸せなことですよね。
      ワタシも、やりすぎたかなって思ったら、
      意地張らずに素直にごめんなさいって気持ち伝えられるようになりたいって思います~。

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